Masukその頃、シャーデフロイ伯爵邸の書斎は、凍てつくような静寂に支配されていた。
普段ならお気に入りの茶葉と、父の愛する葉巻の香りが満ちているはずのなのに。今や氷河期のよう。 「――それで? この惨状を、一体どう説明してくれるのかね? 我が愛しのビーチェ。そして“誰より有能な”執事殿」地を這うような声で、空気が震えた。
マホガニーの机向こうに座る父、ウェルギリ・ファン・シャーデフロイ伯爵は、普段の親バカな顔を封印。 恐るべき毒蛇としての顔で、わたくしたちを見据えていた。 こうなったら、もう、言い訳よ! とにかく、必死に! 頭、フル回転!「そ、その、パパ。これは……ええと、不慮の事故と申しますか」
でも、絞り出せた言葉はこんなもの。わたくしったら根が正直だから!
「なるほど。事故で王太子にインクをぶっかけ、宰相家に宣戦布告まがいの挑発をし、アカデミーを巻き込む大騒動になる、と? ベアトリーチェ、お前は私のことを、それで納得するほど耄碌した父親だと思っているのかね?」
ひぃっ! め、目が笑ってないっ! 全然笑ってない!
でも、こっちにだって、言い分があるもんっ!「パパだって! この縁談にひどい裏があるなんて言わなかったじゃない! わたくしを売ったわね、この裏切り者! ママに言いつけてやるんだからっ!」
わたくしが半ばヤケクソで叫ぶと、毒蛇の仮面に、ピシリ、と亀裂が入った。
そうよ、忘れてはいけないわ。この家における最終兵器にして、絶対的な女王……それは何を隠そう、愛しのママなのだ! よし、効果は抜群だわ!「ま、ママは……この件には関係ないだろう」
「関係なくないですわ! 愛する一人娘を、政争の生贄に差し出したなんて知ったら、ママは悲しみのあまり三日三晩寝込んで、パパとは一ヶ月は口をきいてくれなくなりますわよ! なんならもうっ、お気に入りの別荘に引きこもって、帰ってこなくなるかも!」 「ぐっ。そ、それは、非常に困る……っ」 「うわーん、ママぁー! パパがぁーっ! わたくしの純情を弄んで、お城に売り飛ばしましたーっ!」 「待て! その不名誉極まりない言い方はやめろっ! 大声で呼ぶな、頼むから、まずは冷静に話し合おうじゃないかっ!」ほれ、見たことか! 動揺する父に向かって、わたくしは畳み掛ける。
「だいたい、わたくしだって好きでやったわけではないのです! すべては、シャーデフロイ家と、パパと、領地の民を守る一心で! このわたくしが! 必死に! 悪役を演じようと努力した結果なのですわ!」
胸を張り、力強く主張する。
もちろん瞳を潤ませて、渾身の上目遣いも忘れない! そうよ、元はといえば、王家の策略を看破しながらも、乗るしかなかったパパのせいでもあるんだから!(わたくしがどれだけ傷つき、惨めな思いをしたと思ってるの! どうせ、アカデミーでどんな目に遭ってたかも、知ってたんでしょう! むぅーーっ!)
必死の主張に押し黙り。やがて、天を仰ぐように深~いため息をつく。
先程までの猛毒は、すっかり抜け落ちていた。「すまなかった、ビーチェ。お前に、あまりにも重い荷を負わせてしまった。だが、あの時点では、私にもこれしか手がなかったのだ」
「パパ……」 「というか、正直に話したら、いったいお前が何をしでかすか。まるで予想できず怖かったと言うのもある」 「パパ?」ちょっと、それどういう意味なのよ。失礼しちゃうわ!
「だが、まあ。結果は悪くなかったかもしれんな。シューベルト宰相の鼻を明かし、王家には大きな貸しを作った。両者の関係性にも、楔を打ち込んだ」
「そ、そうでしょう????」よくわからないけれど、結果オーライみたいね! ラッキー!
「そして何より、お前自身を『ただの箱入り令嬢ではない』と、この国に知らしめたのだ。存外、これが一番大きいかもしれん」
「あら。元より、わたくしは超絶優秀な箱入り令嬢ですわよ」 「成績の話ではない。家門を背負い、政争の表舞台に立つ力があるかどうかで、対外的な圧力はまるで違う。その“箔”がついたということだ」 「……えー?」でも、それって派閥抗争の矢面に立つ状態が、悪化しているのではないからしら!? わたくしの穏やかな生活はどこへ?!
「ですが……なにかの偶然という可能性はありませんか。たまたま本が落ちて、誰かが並び替えたとか。そう、それこそイタズラ、とか……」「信じたくないのはよくわかる。だが、ありえん。この状況下で、そんなイタズラをする馬鹿がどこにいる。私が、襲撃の報を聞いて、席を外した、ほんの僅かな間だぞ」「そう、ですね。……確かにタイミング的に、イタズラはありえない。しかし、だとすると……」 ローラントの顔が、絶望に染まる。 そうだ。即席の思い付きでは、ありえない。私の本棚に、どんな本があるかを把握してなければ、こんな真似は早々できんのだ。 故に、より恐ろしさが際立つ。「ですが、殿下。もしこれが、黒幕からのメッセージだとしたら、あまりに不可解です。なぜ、自分たちの標的を、わざわざ教えるような真似を?」「……わからん。だからこそ、不気味なのだ」 とんだ挑戦状だ。資料を焼いたうえで、この私に向かって、堂々とベアトリーチェ嬢を狙っていると、アピールしてくるとは。 もはや、「いつでも、貴様の身の回りの誰かを手に掛けられるぞ」と脅迫されているに等しい。頭に浮かぶ……大切な人々。「クク、ククク……。面白い」 不意に、乾いた笑いが、私の口から漏れた。 ああ、怖くてたまらない。怖いさ、たまらないとも! だからこそ、“僕”はシュタウフェン王家の次期後継者として、強く、振る舞わねばならなかった。「受けて立つぞ、正体不明の黒幕よ。このバージル・ファン・シュタウフェンが、この程度の揺さぶりで臆するとでも、思っているのならば――」 “僕”は自らを奮い立たせるように、そう宣言した。 それこそが、皆が、この国の未来を担う者に、求める姿なのだから。「必ず、後悔させてやるっ!」 臆病者には、誰も付いてこない。だから、“
「してやられた、な」 されど、そう悲観することもないかもしれない。 ともすれば、これは私が真実に近づいている証左なのではないだろうか。 少なくとも、“黒幕”はそう恐れた。私という男を。そう考えれば、この胸の屈辱も、少しは――。「……などと、思わねばやってられんな」 虚勢だ。吐くのは、自嘲のため息。いずれにせよ、ここにあった事件の調査資料は、灰燼に帰した。 まさしく、犯人の思い通りになってしまった訳だ。(ならば、シャーデフロイ邸への襲撃は、陽動だったのだろうか?) いや、待て。犯人のもう一方の目的は、この私自身の暗殺だったようだ。 ならば、奴らにとって、“標的の王太子バージル”がここにいなかったことは、予想外だったのではないか。 そうだ。だとしたら……、まだ、“僕”は負けてない。 思考が、すぅっとまとまり――ふと、見上げたそこには、本棚が。「バージル殿下?」 動きを止めた私に、ローラントが心配そうに声をかけた。 だが、今はそれどころではない。本棚の配列が、変わっている。太陽への道、通商勅令、ある若き騎士の迷い、聖オットーの双王国年代記……。「……ローラント」「はっ」「私に、シャーデフロイ家襲撃の報を知らせ、この研究室から連れ出したのは、お前だったな?」「はい、もちろんでございます! ……それがなにか?」「ならば、信じるとしよう」 おそらく、ローラントは“白”だ。彼の忠誠心は疑いようもないだろう。 だが、他の騎士は? このアカデミーにいる、ありとあらゆる人間は?「バージル殿下。いったい、なにを……」「静かにしろ。壁に耳あり、だ」 ただならぬ気配を感じ取ったのか、ローラントは息
私は、この不吉な艶やかな黒に、目を細めた。紫がかった妖艶な色彩に。「これも、あえて残された、のか?」「……おそらくは」 もはや、不可視の戦争。そんな渦中に、知らぬうちに巻き込まれている。 どんな仮説を立てても、決定的な証拠に、何も至らない。「殿下。他の場所でも、同様の戦闘痕が、複数発見されております。この痕跡は、道しるべのように……王立アカデミーの方角へと、続いておりまして」「なんだと?」 ますます、面倒なことになった。 我々は、何者かの手によって、誘われているのだ。 あらゆる情報が、先程まで我々がいたはずの、あの場所へと、導いていく。「……行くぞ」 辿りついた図書館。司書に確認を取れば、判明する不自然な|魔術警報《セキュリティ》解除。 それは己のいた区画、第7書庫。そこを担当しているはずの、司書補ルチア。 まさか、と思った。いるかもしれない。険悪な関係の……我が婚約者が。なぜかそんな予感がした。「――二人とも、無事かっ!」 急いだ先に広がっていたのは、信じがたい光景。 床に転がる、さらなる賊、四人。 そして。「ベアトリーチェ……嬢。それに、ルチア」 目に飛び込んだのは、およそ現実とは思えないちぐはぐな絵図。 片や、涙目でぶるぶる震え、立ちすくむ令嬢。 片や、頬に血糊をつけたまま、穏やかに微笑む、もう一人の令嬢。「これは、一体、何があったんだ?」 思わず、唖然としながら投げかけた問い。 二人は、顔を見合わせると、こう答えた。「「そこに悪い人がいましたので……?」」 まるで示し合わせたような言い訳に、覚えた眩暈。 ――これはきっと、疲労が見せた幻覚に違いない。***
あれは、嘘偽りなき真実なのだろう。 私はそう思った。 “一人の父親として、ただただ娘の身を案じております” 走り書きされた文字には、父親の悲痛な思いが滲んでいたように見えた。 だからこそ、だ。シャーデフロイ伯爵邸に駆けつけた時、目の前に広がる光景に、己の思考が凍りいたのは。 門は、半壊。巨大な獣がこじ開けたかのように、へしゃげて。 かつて、寸分の狂いもなく整えられていた庭園は、いくつものブーツ跡で踏み荒らされ、魔術によって焼け焦げていた芝生が異臭を放つ。 ――戦闘は、あったのだ。間違いなく。それも熾烈なものが。 甲冑を着た衛兵たちが、負傷した仲間を運び出し、怒号に似た声を張り上げる。 だというのに。「これはこれは、殿下。……こんな夜分に、お早いことで」 館の大扉から、悠然と現れた当主ウェルギリ伯は。 今しがた、極上の一瓶を開けたところだと言いたげに、ブランデーグラスをゆるり揺らしていた。 背後では、メイドたちが、ガラス片を手慣れた様子で片付けている。そう、淡々と。日常の一環のように。 箒が掃く、サッサッ、という乾いた音。(伯どころか。使用人たちの、この落ち着きよう。この異常事態に、まるで動揺していない。……これは、なんだ?) 違和感を飲みこんで、私は尋ねた。「……どういうことだ、伯爵。一体、何があった」「なあに、文でお知らせしたとおりです。小うるさい羽虫が、騒いでいただけのこと。既に、叩き潰しましたゆえ、御安心召されよ」「だが、そなたからの報せでは……令嬢がっ!」「おお、左様。それについては、誠に、そう、誠に困っておりましてな。いやはや、どうしたものか、と」 そこにいるのは、愛娘の危機に動転する父親では、断じてなかった。 平時と何ら変わらぬ、悠然とした『翼ある蛇』……父王が警戒して止まぬ、辺境の
ガタン、ゴトン。石畳を駆ける車輪の音が、やけに頭に響くわ。「……で?」 向かいの席に座る、我が腹黒執事に向かって、わたくしは非難の声を上げた。「で、とおっしゃいますと?」「どこで油を売っていたのよっ! わたくしが、どれだけ大変な目に遭ったと思っているの!? 危うく、人生が、終わるところでしたのよ!?」「逆に、こちらもお聞きしたいのですが。待つようお伝えしたのに、なぜ、殿下の研究室から、わざわざご移動しようと?」 ……沈黙。 あ、これ、知ってるわ。わたくしの軽率な行動を、ねちねちと責められるパターンのやつだわ、あわわわわ!?「あー。……まあ、今回は、特別に、大目に見て差し上げてもよくってよ?」「まさかお嬢様は“待て”すら出来ない、やんちゃなお子ちゃまでいらっしゃいましたか?」「違うもん! あなたが、あまりに遅かったのが悪いんだもん!」「結果として。お嬢様の行動は、王立アカデミー附属図書館の|魔術警報《セキュリティ》に穴を開けたと同義なのですが、ご自覚は?」「はうっ!?」 そうなのよ。わたくし、隠し通路から、脱出しようとした訳だけれど……。 なぜか、区画の警備魔術が、一時的に、ごっそり解除されてしまっていたんですって!「あれって……やっぱり。わたくしの、せい、かしら?」「他にあるわけがないでしょう。おそらくは、王族の緊急避難通路を、不用意に起動した不具合でございますね」 スパッと言い切られた。うぐぐぐっ。「襲撃犯たちは、お嬢様の作った穴をまんまと利用し、殿下の研究室へ辿り着いた、と。よくぞまあ、侵入者を“手招き”しておいて、皆様にバレずに済んだものですね?」「いやぁあああっ! 言わないで、イヅル! なにも聞きたくないぃぃぃっ!」 ああっ、すべてが――わたくしのやらかしっ! 幸い警備体制を解除
ルチアは、スティックに付着した血を、悪漢の服で雑に拭うと。 何事もなかったかのように、カチリ。それを腰に差した“杖の隣”へと、何事もなかったかのように、収納した。 杖との二本差し。つまり、あれは……折り畳み式の、対人魔術兵装。「ベアトリーチェ様! お怪我は、ありませんでしたか」「ひゃ、ひゃい! わ、わたくしは、だ、大丈夫ですけれど!?」 ぱたぱたと駆け寄ってくるルチア。 わたくしは恐怖のあまり、後ずさることしかできない。 だって、怖い! この子、どう考えても、わたくしより、あの魔獣より、ずっと、ずっと、怖い!?「え、でも。顔色悪いですよ? 本当に大丈夫ですか?」 わたくしの手を取り、心配そうに、顔を覗き込んできた。どの口が言ってるのかしら、あなたは?! でも、こくこくと、頷くことしかできなかった。「ふぅー、結構、いい運動になりましたね! あ、そうだ。司書さんに報告しなきゃ」 「うぎゃー」とさらに、どこからか新たな悲鳴が聞こえてくる。バージル殿下の研究室からだった。「あー。まだ、侵入者さんいたんですね。……一度、|魔術警報《セキュリティ》に検知されたら、図書館に住み着いている“知識のゴースト”さんたちに、魂吸われちゃうのに。あーあ、かわいそう」「かわいそうって!? この図書館、危険地帯過ぎませんこと!?」「そりゃ、国家の重要研究機関に付属する、機密書庫なんですから」 当り前でしょう、とルチアは首を傾げる。 わたくし、なんて恐ろしいところに忍び込んでいたのかしら。色んな意味での恐怖が、今さら、どっと伸し掛かってくる。「でも。ちゃんと、お約束、果たせてよかったです。ベアトリーチェ様にも、お父様にも」「あなたのお父様じゃありませんことよ?」 機嫌よさそうにニコニコするルチア。いいから、頬の返り血を拭いてちょうだいよ。 さっきまでの、戦いっぷりは幻覚だと思いたいけれど、証拠が目の